サイドB Ver.で考えるあれこれ。

日常で感じたことを、思いつくままに。

『可哀想』の定義づけはいつだって発信元の主観

もう社会人になってしまったが
一人だけいる私の娘は

左耳が感音性難聴で
健常な右耳に比べると半分以下の聴覚しかない。

小さな頃はそれに気づかず
小学校入学前か、低学年だったか
その辺りの健診で診断された。

聴こえない素振りも全く無かったので
母娘ともに気づかずにその年齢まできた。

そこから数年は実母には
『片耳が難聴なんて可哀想に産まれた』
『妊娠中に仕事を辞めて栄養を摂れば
回避出来たら違ったのでは』など

孫可愛さに、娘である私に延々と
悲嘆した思いをしばらく言われ続けていた。

私自身も、そう言われると
『もっと解決法があったのでは』
おたふく風邪になったのが要因か』と
自責して静かに苦しむということも続いた。

ケロリとした顔でおやつを食べながら
TVを見ている頭を撫でながら
実母は『可哀想に』『可哀想に』と
涙ぐんでいたことも記憶している。

ところが時を経て
自我も目覚め、大人に成長し始めた
とある日、娘はキョトンとして言った。

『片耳難聴が可哀想、大変だねと
知っている人には言われるけど

正直産まれてからずっとこの聴覚感覚でしか音を聴いてこなかったから、可哀想がられてもどこが可哀想なのか自体が、強がりでなく心から

自分では分からないから憐れまれたくない』

『両耳がどちらも100%聴こえる状態自体を
経験したことがないから、羨ましいとさえ
感じない。今の状態で不便がないから。』

目から鱗だった。
そして、可哀想の感情は
いつだって発信元の定義づけが片方の主観でしかないことを知った。

私たちはたまたま両耳が聴こえているのが
スタンダードだから片耳難聴、と聞けば
(両耳揃って健聴でないなんて可哀想に…)と

ずっと思っていたけれど
両耳が揃って聴こえた経験がなければ
それは本人にとってスタンダードは
片耳だ。確かにそうだ。

単元的な側面でしか判断せずに
つい同情を寄せがちなのは
こちら側の一方的な思い込みにしか過ぎなかった。

そう考えると
他のことに於いても
自分の主観だけで物事を判断することが

なんと多いことだろう?
在るがままを受け入れ、受容し
自分以外の人間の思いなんて

その本人にしか分からないものなのを
忘れがちだったけれど
こうして一つ一つ学ぶたびに

些細でも実はとても大切な感情の機敏を
覚えていったように思う。

可哀想は、いつだって発信元の主観から生まれる。

【特別でも何者でもない】自分を愛でて生きること

かつて国民的に知られた
とある曲の歌詞で

『No.1にならなくてもいい、
もともと特別なオンリーワン』

という歌詞があった。

そのままの意味で受け取れば
すごく励まされる良い歌詞だ。
でも、もともと特別なオンリーワンって

ある意味物凄いプレッシャーな言葉だ。

小さい頃、よっぽどじゃない限り
どこの親御さんも我が子を“特別”な人間に
なれるよう、一生懸命育ててくれる。
(ここではネグレクトや貧困層等の
社会的問題についてはあえて割愛します)

そして、もともとの素地がある程度ある、
賢くて才能がある人間は努力して
大人になると社会的にも立場上でも

『つまらない仕事ではない、特別な才能を
フル活用した全うな仕事』に就く。

私は、大して頭も良くないし
眉目秀麗でもないし、
ましてや平凡なサラリーマン家庭で
育ったので

“育ちが能力以上の下駄を履かせてくれる”という“VIP待遇”は殆ど受けてこなかった。

それどころか
普通の人間が1回で出来ることが
絶対に何度も何度も繰り返し失敗してから
ようやく出来るようなタチなので

“私はいつか特別な何者かになれるのだろうか”

という不安がずっとつきまとっていた。

結果的に言うと、何者でもなかった。
ごくごく普通の知的レベルでしかなく
富裕層になったわけでもなく
何かで大成功したわけでもなく

30歳になる手前で出産した子供を
手を抜いたり余所見したりした時期を経て
どうにかこうにか育て上げ

少しだけ文章を書くのが得意なので
物書きの端くれの、そのまた端くれのような
ことをして、夕方になれば

台所の流し台に立ち
ごぼうを黙々と洗い、野菜を洗い
夕飯の支度をする。

健康のために週4回運動をして
体脂肪と血圧を整え、風呂にゆっくり浸かり
静かに夜中まで読書して就寝。

何ひとつ、人生に於いて
特別な才能も必要ではない生活をしている。

でも、それがとても大切で心身ともに健康で
心が安らぐことに、いま心から満足している。

若い頃は(もっと本当は自分は出来るのでは)
(みんなのように何かを成し遂げなくちゃ)と

身の程知らずなことに
焦燥感でいつも落ち着かなかった。

だから今のように
穏やかで健康で安らぐ時間が
自分を満足させるとは思わなかった。

自分の機嫌を自分でとれるようになって
子育てが終わって、人生の終焉が見えてきて
ようやく歩いている道の先が見えてきた。

まったく特別でも何でもなくていい。
どこからか優先的に何かをしてもらわなくていい。

この、今の、体感している穏やかささえ
損なわれなければ、本当に普通でいい。

だからこそ自分の子供世代にも
過剰な期待や責任は負わせたくない。

それがどれだけ呪いの言葉になって
本人を縛るものか知っているから。

時には天候が荒れるだろうけれど
いつまでも手のひらに乗せて
飛び立たない鳥だと困る。

特別でなくても立派でなくても
エリートでなくても何でもいい。
本人が満足して生きてさえいてくれれば。

(ただしある程度の社会的概念は踏まえた上で。)

ああ、50年かかって、ようやく
本当の意味で解放されたこのメンタルは
何者にも替え難い。

私は、人生生きてきた中で
今の私がいちばん大好きです。

死ぬまでに気づけて良かった。

いまどの段階?

マズローの欲求5段階説」

人間は低次の欲求が満たされるとより高次の欲求へとシフトして、最終的に欠乏欲求が満たされると「他人の言うこととは関係なく自己実現を達成したい」という成長欲求へとたどり着く。



この図を見ると、承認欲求から
もうひとつ上の成長欲求にいく段階が
人間として、たぶんいちばん乗り越え甲斐があるくだりなんだと思う。

ここを拗らせたり、上がりきれない人間
(もちろん自分も含まれる)が
本当に大多数を占めている気がする。

というか、承認欲求と成長欲求の
区別がつかずにごっちゃになって
低次の欲求を満たして積み重ねきれて
いないのに混ざった欲求の中で
足掻いていることも多いはず。

骨粗鬆症的な成長にはなりたくない、
しっかり骨の内側まで詰まった
人間として生きたい。と常々感じる。

そのためには


が不可欠とのこと。

さて、バランス感覚があり
大人としての品性と知性を持ち
社会的にも個人的にも
安定したフィジカルとメンタルを
絶妙なさじ加減で維持していくのは

今の自分にとって
とても大切な要素。
あまり賢いとはいえない本質で
反射神経で喜怒哀楽が出やすいと
自分の素質を客観視しているので

せめて今挙げたように
そのあたりを意識していきたい。